Sekiの本と詩とエッセイのブログ

おすすめ本や自作詩、エッセイなどを載せていきたいと思っています。

「自我確立」と女性の視点

西洋文化の女性の視点ということで、よく考えることがある。


卑俗なところから。まず、ベートーヴェンをヨーロッパ随一の美男子としなければ、気の済まなかったこと。バッハについても、その再婚相手のアンナ・マグダレーナが、「バッハの思い出」の中で、申し訳ありませんという調子で「私の夫は、美男子ではありませんでした。」と述懐していること。写真が残されているあの太っちょのバルザックについてさえ、リアリズム作家の代表選手として、その風貌は洗練されていた、と絵にされるときは無理にでもロマンチックな書き方をされること。


これらは要するに、すべて女性の目を通した芸術家達の扱い方であって、男の目から、こういうことが起こるとは考えにくい。


ところで、題名の「自我確立」だが、ヨーロッパから輸入されているのは、とても高級な自我確立ばかりで、まあ、模範としては良いのだろうが、いわゆる一般的なそれはどうなっているのかと長らく疑問が湧いていた。あるとき、幸いなことにそれに出会った。あちらの通俗的な自我確立といってよいものを、「ゴッホの手紙」の中に見つけた。


その横顔を、ゴッホの言葉を借りて紹介してみたい。ゴッホと親しかったある郵便配達夫であるが、「いいか、何が起ころうとも俺を見ておれ。俺が何をし、何を言うか、それだけを見ていればいい。他のことはどうでもよいのだ。たとえ、世界が滅亡しようと俺だけを見ておればよいのだ。」
 
これが言わば、通俗的な自我確立である。


それで、先に書いた言葉を思い出して欲しい。この通俗的な自我確立も、要するに女性を意識した言い方そのものである。


昔、ある流行った詩で、「世界が滅んでも心配するな。俺の店は開いている。」と西洋仕込みの通俗な言葉を書いて受けていたが、これも女性に対する言い方であるのは、瞭然だろう。通俗な人間は通俗な人間のまねをしたがるものである。ただし、そうした通俗の良否は問わないが。


日本人による開国以来の先達たちの苦労を重ねた自我確立は枚挙にいとまがない。だが、例えば、志賀直哉を評して「自我の絶対化」と簡略に割り切ってしまう気の短い批評家は、日本人による自我確立という問題には、まったく不向きな、軽薄短小な時流の犠牲者と言って差し支えないが。


ともあれ、これからの日本人はどう自己を形成することになるのか。非常に興味のあるところである。