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ポルポト「新自由思想の帰結」 <イスラム国> 改版

そもそもの話であるが、「新自由思想」という、言葉自体が奇妙である。ニーチェが言っているように、「思想」はすでに、どのような思想であろうと、人間によって考え抜かれ、その帰結するところは、見抜かれているのである。


従って、われわれに残されているのは、思想を選択することであって、それが、現代という地に播かれ、どのような生育を見せて行くかである。だから、思想の選択は、慎重に吟味されなければならないので、自由にどの種でも、その生育に任せればいいというものではないのである。特に、国家という極めて大きな図体のものが、思想を選び間違いでもしたら、とんでもないことになるのは、目に見えている。


それで、ポルポトの話であるが、この男が、何をしたかについては、改めて言う要もないくらいだろう。ポルポトに、率いられたクメールルージュは、新自由思想の名の元に、自国の数百万の民の命を奪ったのである。それも、「再教育」と称して狙われたのは、自国の知識階級たちであった。このあまりにも無残な出来事を、遠い異国の夢物語のようにしか聞けないのは、思想というものの重大な性格に気が付かない呑気な心の持ち主としか言えないのである。


ポルポトは、共産主義思想を学んだ後、今度は、まったく新しい自由思想の旗を建てたと信じ、それを強行した。ポルポトは、少しも狂ってなどはいない。むしろ、新思想という空想を信じ込んだ理念のお化けなのである。ポルポトは自国の集団生活を強いられた子供たちに、こう教える。「泣いてはいけない。また、笑ってもいけない。」と。ここに見える思想は、他でもない、東洋の自由思想の大家「荘子」の真人思想である。


自国の民を、どの国にも劣らない道徳的に優れた民にするために、自分の国の人民が、六割になってもいいと宣言するのである。他の思想はポルポトには、すべて民を道徳的に汚す思想に見えたのである。だからこそ、知識階級が標的として狙われたのである。新自由思想など有り得ない。空想なのである。だが、ポルポトは頑迷に、自分の言っていることは、「新自由思想」だと確信していたことだろう。この一人の男のひねくれた頑迷な信念が、あの無残極まりない悲劇を生んだ。思想の実践に有り勝ちなように、国は閉ざされ、自由思想の巨大な実験場と化したのである。 


だが、独裁者を生まない、この日本という国では、そうした男が出現するとしても、麻原に終わるであろうことは、目に見えているが。だが、大雑把に言って、この最新式の宗教的なる小ポルポトに違いない麻原一人の出現にしても、とんでもないことは事実である。この事実一つにしても、日本は、ある種の危険な、空想的なまた宗教的な、新自由思想なるものを蔓延させる土壌を、すでに持っているのである。


イデオロギーの時代は、どうやら、終焉したようであるが、その代わり、人々は、宗教的な思想に吐け口を見いだそうとしているように見える。


現代の中東に目を移せば、「イスラム国」の出現がある。彼ら指導者は「新イスラム」「イスラム原理復古」、言葉はどちらでもいいが、そうした思想を信じ込んでいることだろう。 


現代の政治思想、あるいは宗教思想というものが、穏健な常識的なものであることを願っている。