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死という雄弁 <聖人たちによる「道」の制作>

わたしは、三人肉親を亡くしているが、彼らが日々いかに雄弁であるかは、他の兄弟や母も、私自身も変わりはないようである。他界した兄のことを、母は未だに、わたしに「なんで死んだんだろう?」と問い掛けてくる。母がまだ兄の死を受け入れられないでいることが分かっているので、わたしは黙っている。


これは、無論、わたしの家族に限らない。「死人に口なし」とは、浅薄な表現であって、死者ほど残された生者に雄弁に語るものはない。


また、生者は死について、いかに雄弁に語るものであるかは、誰もが覚えのあることであろう。死についての著作は枚挙にいとまがない。死について寡黙であることは、いかにむずかしいことであるかを語っているようだ。


序でながら、死後生のことについて。ゲーテは、当時、閑人の貴族階級から死後生のことについてうるさく問われ、うんざりしていたようである。ゲーテは、「もし、死後生があったとしても、あなた方とは会いたくありませんね。あなた方は、わたしに、ほら死後生はあったでしょうとうるさく言ってくるに違いありませんから。」と希代の教養家らしくユーモア精神たっぷりに応えているが、このように、死後生のことについて、あれこれ思い巡らすのは、有閑階級の人々であることは、昔から変わらないようだ。


儒教は、死後生のことについては、何も語らない、実に男らしい学問である。「論語」には、孔子については、どのように死んだかの記述さえない。


ちなみに、「道」は儒教の祖、古の聖人たちの制作によるものである。「易経」に「形而上なるものこれを道という」という言葉が見える。簡略に言って、孔子はそれを引き継いだ人。老子はその道を空言に載せた人である。


それはともかく、自分が亡くなっても、自分の志を継ぐ者があれば、それで良しとする。儒教は、こんなに現実的で積極的で建設的な知恵もないと思っているが、東洋思想はなかなか、一筋縄では行かないところがある。


他の思想との混在が可能な仕組みさえあるのである。わたしは、儒教は、政治思想としてみても、これを抜くものは、ないのではないかと思っている。中国が、共産主義思想政体をとりながら、市場開放を可能にしているのは、東洋のこの思想の混在状態を是とする考え方があるからこそだと思っている。ロシアではそうは、いかなかったのである。


民主主義政体が普遍的な価値を持っているものであることは、論を俟たない。要はその政体の中で、儒をどう生かすかであるかとかんがえている。