Sekiの本と詩とエッセイのブログ

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武士道の体現者 「ラスト・サムライ」西郷隆盛

一時期、「ラスト・サムライ」という映画が流行ったことがあった。わたしは流行りものは敬遠する性質で、未だに、その映画は見ていない。


わたしが思ったのは、内村鑑三が「代表的日本人」の中で、西郷を評して「最後にして最大の武士」と言っていたのを、記憶していて、そのことを、あれこれとつらつら思い巡らしたのである。


内村の「代表的日本人」は、原文は英文で、欧米の知識人にはよく読まれた書物らしく、アメリカ大統領のケネディも尊敬する日本人として、その中に書かれた「上杉鷹山」を最も尊敬する政治家のひとりとして挙げている。


一体、この武士道を真に体現した西郷という人物ほど、不思議な人格はいないように思える。福沢諭吉は「丁丑公論」の中で、西郷を熱烈に擁護する文章を書いているが、西郷のその人物としての、茫漠としていながら、時に雷鳴を轟かせる大きな雲のような捉え難さは、後世に生まれたわれわれを、途方に暮れされるようなものがある。


罪人として送られた離島では、島の管理人の婆さんから、「二度も、この島に送られてくるなんて、なんて人だい」とたしなめられ、何も言えず、下を向いて、真っ赤になっているし、陸軍大将になってからは、議事堂に入ろうとして、「お前が、西郷であるわけがない」と門番に止められ、「わたしが陸軍大将、西郷である」と言っても、門番は一向に取り合わない。ようやく、日が暮れる頃になって、この人こそ西郷だというお偉方が現れて、やっと、中に入ることができたという風で、かと思えば、主君の島津久光には「ジゴロ(田舎者)が!」と叱咤するように吐き捨て、官軍として東征した折には、討ちてし止まんと軍人の面魂そのものをみせているが、ついには、「情の人」として江戸城無血開城を実現させている。文学的に想像を巡らしても、焦点を結びがたい人格である。


司馬遼太郎は、小説の中で、西郷を扱っているが、明治期前は頼れる傑物であるが、彼の筆では、維新後は、単なる愚物と変ずる。その点、内村の短文の方が、西郷については、余程、精彩がある。


武士道は、元々、「弓馬の道」として、武士階級の中から誕生し、儒仏の洗練を受けて、江戸末期から明治初頭にかけて、その最大の成果を得たと言ってよいが、内村が捉えたのは、西郷の「情の人」としての武人であった。近代を憎みながらも、理知の人であった司馬には、どうしても、捉えがたい人物だったように思える。


それはそれとして、キリスト教では、イエス以上のキリスト者という人などというものは考えられもしないが、内村は、侍の代表選手として、わざわざ同時代人の西郷を選んでいることである。つまり、キリスト教では、初めから、その大いなる人格はそのまま与えられているのだが、日本では、事情がまったく逆様になっている。要するに、武士道は非常に発展性のある人格形成力を持った「道」だったということである。


武士道は、男だけのものではない。女人も侍たることを要したのである。武家諸法度は、妻の密通を死罪とした。無論、武家階級以外の庶民には、そうした倫理的な高さは、求められてはいなかった。


平安時代の用語「やまとごころ」「やまとだましい」という言葉も、この「武士道」の中には、含まれているとみて良いので、外には気振りにも見せずに相手のことを深く思いやるという女性的な原理も持っているのも、そのためである。一言では、とても言い尽くせない含蓄のある言葉なので、新渡戸が「武士道」の中でじつに苦労しながら、筆が思い悩んでいる箇所が随所に見えるのも、そのためだろう。


先に、弓馬の道について触れたが、これは鎌倉時代の言葉で、「清濁を分かたぬ武士」というのが、その勘所の意味である。この弓馬の道が、武士道へと発展するのであるが、これが、江戸初期の葉隠を経て、特に儒教の洗練を受け、明治維新の傑物たちを排出するまで、じつに長い間の文化浸透があったであろう。


それが、内村の目に「最後にして最大の武士」として、武士道の真の体現者として、西郷の人格に収斂された。そうして、それを書き得た内村自身も、代表的日本人だったに違いないと、わたしは思っている。西郷を生き生きと書き著し得た長編評伝、もしくは伝記は、まだ、無いようである。