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儒教 <リアリスティックで建設的な知恵>

儒教は、その本質を一言では言えないという特徴を持った学問で、儒教が批判されるときには、いつもその端的さを欠いた不得要領な性格が、引き合いに出される。儒教は無論政治思想なのだが、孝悌忠を徳目に掲げるという世界的に見てもめずらしい政治思想である。


そもそも、第一の徳として掲げられている「仁」にしてからが、端的な説明を拒む要領を得ない言葉である。高度な情と愛における本質的な相互作用と、仮に説明的に言ってみたとしても、仁という観念が分かり易くなり、使い易くなるわけではない。学者は、「仁」という言葉の語釈に追われているようだが、宣長の言うように、こういう言葉こそ「語釈は緊要のことにあらず」である。むしろ、仁徳天皇の日本人なら誰でも知っている簡潔な話柄の方が、仁の徳の意味合いをより良く表している。


そうして、こうした事情はむしろ反対と見て良い。というのは、「仁」は、分かり易く定義されることを拒み続けていると言っていいので、仁という言葉の持つ生命力の強さを、却って、表していると言えるのである。「医は仁術」という昔ながらの言葉は、今でも、決してその意味するところに変わりはない。


孝悌忠はまさしく中華民族の個性的な徳目で、道という形而上から分岐した仁義礼智信の大きな幹からリアリスティックに、再び、分岐した力強い枝々である。「義」という言葉も、それこそ多義性を帯びた、定義を拒む言葉であることも付言しておきたい。道理、条理、理、新しくは「理念」。義はただしいとも訓ずるし、義士は、また、忠なる士でもある。


わたしは、儒の徳が、本当に発揮された国は、江戸時代の上杉鷹山による米沢藩だったと思っている。


ここで、仁義礼智信の礼が智信の上に来ていることに注意して欲しい。社会生活上必至な礼儀というものの占めるウェイトが儒教においては甚だしいのだ。礼孝悌の徳目は、現代の日本でも未だに、強く根を張っていることは瞭然であろう。そうして、宗教的な徳目としては必須の位置を占めるべき信は、末席に追いやられている。信はあまりにも、普遍的に世間にばらまかれている徳目ということで、孟子になると仁義礼智で済まして、信はほとんど言及されない。


また、「天」という言葉も見逃せない。これも実に長持ちしている定義を拒む健康な言葉である。近年では、漱石の則天去私がある。


自分の志を継ぐ者があれば、それで充分であるとし、死後生に関する思考は一切無用なものとして退けられ、視線は常に現実的な政治と社会とに向けられる。宗教にとって救済にあたるものが、儒教においては「道」というもののあらわれといっていいだろう。そうして、この道は、知的構築物になることも厭わないが、現実世界のみを支えとする形而上である。これほど、男性的で、建築的な知恵は世界的に見ても他に見当たらないと思っている。