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エッセイ 橋と到達点 <クラシック音楽他雑感>

バッハのマタイ受難曲やヨハネ受難曲を聞き込んだ。


そうして、思ったことがあるのだが、そのことについて少しばかり書いてみたい。


アーチ型の橋を石組みで作るとき、アーチの下の部分をまず木組みで作り、その上に木組みに合わせて石を載せていく。その後に、木組みを取り除けば、しっかりした橋ができる。物理的に見ても、木組みは取り除いた方が頑丈な橋が出来上がる。


クラシック音楽初心者にとっては、ヴィヴァルディの四季やベートーヴェンのエリーゼのために、ドヴォルザークの第九シンフォニー等は、避けて通れない道だろう。だが、一度それを通過してみれば、これは通俗クラシック音楽として、傍らに置いておいて少しも差し支えないものとなる。むしろ、何年もクラシック音楽を聞いていて、まだ、それに執着しているようでは、その人のクラシック音楽の教養を疑いたくなるようなものである。


その思考を、さらに発展させてみよう。われわれは今し方、初心者向けのクラシック音楽として通俗的なそれを否定したわけだが、ここに、言わば真のキリスト教徒を想定してみたら、どうであろうか。彼が、バッハのマタイ受難曲やヨハネ受難曲を偶像崇拝だとして否定しても、われわれは返す言葉がないのではなかろうか。もし、かれがバッハのそれに感化を受け、そうして真のキリスト教の信仰に辿り着いた者だとしても、かれには、それを否定する充分な権能を持っているだろう。


バッハのマタイやヨハネ、それにミサロ短調を加えてもいいだろう。それらが、われわれ異教徒の胸にも、キリスト教についてもっとも肝心な感情を呼び覚まさせるものであることを、わたしは否定しない。それでも、それは最初に言っておいた木組みに過ぎなかろう。


また、禅で、不立文字とはこのことを指すのではなかろうかとも考える。禅は、多くの古典を引き連れているが、到達点に達したら、それらの古典は要するに橋に過ぎなかったことを、多くの禅者は思ったことを考える。ときには、それが障害となることさえあるのを慮ったであろう。「仏を殺し、祖を殺し」臨済のこの言葉は、是非とも言われなければならなかったのであろう。


さらに、浄土教の方にも、親鸞のこの言葉がある。「釈迦の御説、虚妄なりとも」
これも、浄土的な仏殺しである。


イエス・キリストは実際、殺されてしまったからもう殺される必要がないのであるが。
ソクラテスも、この観点からから見れば、やはりアテネの法律に従うのは必至ではなかったか。


それにしても、不思議なのは孔子である。
わたしは、この人のことを端的に捕らえ得た観念を未だ聞いたことがない。