Sekiの本と詩とエッセイのブログ

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エッセイ 存在動詞 <宗教的なるもの>

かねてから思っているのだが、日本語には、英語のbe動詞に相当する意味での存在動詞というものは、ないのではないかという疑念を持っている。


結論から言ってみれば、英語のbe動詞フランス語のetre動詞等は、いわば存在を保証する動詞だと思っている。


日本語いや日本語に限らず、漢字圏の言語では、例えば、「私」「彼」と書けばもうそれで、その存在は確実なのであって、be動詞やetre動詞によって保証される必要はない。


あるとき、「色即是空」の英訳について、詳しい人に質問したことがあるが、やはりbe動詞が使われていた。だが、この中国訳にはどこを見ても動詞すらないのである。(是を動詞としてみるにしても、中国語の特性で、是は名詞にも成り得る言葉である。)
「存在」に関する用語の欧米文化圏の厳格さが窺えるような気がする。ちなみに、日本語では形容詞の用語の貧困が極まりないが。それはともかく。欧米文化圏では、主語の存在はこのbe動詞やetre動詞によって保証されるものだという推論は、少しは当を得ているものだと思う。


「春はあけぼの」は、英訳がきわめて困難な日本語である。英語文法に馴染んだ人には、文法的に欠陥のある文章だとさえ言いかねないだろう。だが、われわれ日本人にとってみると、この意味するところを、ぎりぎりまで省いた美しい文章は、文法的に欠陥があるどころの段ではない。これに難癖をつける方がどうかしていると思うのが実感であろう。


ジイドだったか、3年間仏教を勉強し、こういうものが分かるという人間は、馬鹿だと言ったそうだが、欧米人にとって東洋的な知恵を習得するには、3年間では短か過ぎる期間であるようだ。


この文章を書こうと思ったのは、あるときフロイトを読んでいて、アルファベットに代表される表音文字には、神の形象化の禁忌が働いているから、文字の象形性を忌避するという文に出会ったからであるが、それにもまして、英語を初めて習ったときに、be動詞なるものに抱いた強い違和感があったからである。往時は、臭いを嗅いだだけだったが、それが宗教的なものを基盤としているのに思い至ったのは、最近のことである。be動詞という存在動詞も、やはり、欧米人の神に対する厳しい態度によって厳格に規定された動詞だろうと思うのである。当のフロイトは、自分のユダヤ教に対してはある種の違和感を生涯抱いていたようであるが。


be動詞etre動詞等の存在動詞は、欧米文化と切っても切れない関係があると私は思っている。このいわば別格の動詞は、存在を言語的に規定している。アルファベット属の言語は、動詞が存在しなければ、存在さえも危うくなる言語なのではないだろうか。


宗教的なものは、ずいぶん深くわれわれの言語生活に、潜んでいるものだと思うのである。