Sekiの本と詩とエッセイのブログ

おすすめ本や自作詩、エッセイなどを載せていきたいと思っています。

エッセイ 人の良さということ<東洋知の可能性>

普通人の話をしよう。もし西洋の普通人と東洋または日本の普通人のどちらかを信用するかという話になったら、わたしは即座に後者を選ぶ。人が良いからである。


ルソーは「エミール」の中で、もし君が美しい豊かな農園を所有していたら、厳重な警備を怠ってはならない。近隣の誰かが、羨ましがってやって来て、必ず、(ルソーは「必ず」と書いていた。)君の農園を奪おうとするだろうと。ルソーの言は、西洋の常識と見るべきで、西洋の普通人にとっては、そこに欲しいものがあれば、力づくでも、法を破ってでも、奪いたいものは奪うのである。マッカーサーは、いみじくも、わが軍の兵隊は戦闘よりも、戦利品を漁ることに長けていると言ったが、この欲望むき出しの普通人たちを、咎め得る上級官もアメリカ軍にはいなかったようである。


この欧米人に共通する人の悪さは、歴史に明らかであって、例えば、未だに、アジア諸国、アフリカ諸国に対して犯した植民地支配の歴史については口を拭っている。公式にお詫びを表明すれば、とんでもないことになるのではないかと恐れてもいる。確かに、それほどのことを彼らはしてきたのであるが。


その点、中国の日本がした植民地支配に対する態度は、大国の度量を見せている。日中国交正常化の秋に際しては、田中角栄といい毛沢東、周恩来といい役者が出揃った感がある。ああした歴史の真理がきらめくようなときには、そういう役者たちが出揃うものなのだろう。ただ、日本側が中国語に堪能な通訳者または学者を連れて行かなかったのは、僅かな瑕疵であったが、毛沢東は確かに偉人であった。


西洋の普通人が、人として裏切らなかった例がある。シンドラーである。このトルストイ流に言えば、オブロンスキーやウロンスキー並の倫理観の持ち主であった普通人は、確かに人間を裏切らなかった。だが、彼にしても職を投げ捨てれば済んだ、人命救助の功績は、自分や家族の命が掛かっていたらどうだったろうかと西洋流に意地悪く質問してみたらどうだろう。歴史は、時にそうした好都合なコンディションを用意すると言ったら、これは、人が悪すぎる言い方だろうか。


ともあれ、人間の良さ悪さということを言えば、西洋と東洋では大きな開きがあるというのが、わたしの意見である。この開きには、何か決定的なところがあって、西洋の哲学が現在、頓挫しているというのも、キリスト教によって養われてきた彼らの土台となる徳目に「信」しか置かなかったことに要因しているのではないかというのが、わたしの見方である。普通人が信に足りないとなると、「信」を軸とする宗教、キリスト教を拠り所にする以外ないだろう。 だが、現今のキリスト教の弱体化は、どうしても否めない。そこで、「西洋知」が袋小路に陥ってしまっている感が拭えないのである。「西洋知の限界」というところであろうか。


それで、「知」も、また、そうではないかという人がいるかもしれないが、東洋では、仁義礼信あっての「知」の徳である。旧約聖書では、「知」を方図なく伸ばすことは、人が勝手に作った道であり、神が示した道を歩くことではない」という思想が見られるのである。


新約に見られるのは、自由意志における信仰である。信じるか信じないか二つに一つである。だからこそ、YesかNoかをあんなにはっきり区別したがるのだと思う。しかし、そのことで、自然科学が発達した要因になったのは、確かなようであるが、だが、人間知には、元々、そうした区分けは適さないことも事実である。


レディーズ&ジェントルマンは、新しい用語である。これは儒の「礼」の徳目、または仏教の「善男善女」という言い方を取り入れた新語であって、西洋では、単なる凡庸な男女が善人であるなどという思想は、古来から絶えて見られないのである。


その意味では、仁義礼智信を柱とする儒の教えは、現代社会において、最もモダンなものと言えるというのが、わたしの見解であるが、どうであろうか。