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エッセイ ベートーヴェン<大フーガOp.133>

十五分程度の曲なのだが、学生時代、はじめてこの曲を聴いたとき、そのあまりの苦さに怖じ気づき、再びこの曲を聴く気になるだろうかとさえ疑った曲である。このベートーヴェンの後期の王冠と言われる弦楽四重奏の苦さは並大抵のものではない。シェーンベルグさえ、まだまだ聴きやすいと思えるほどである。


学生時代からは、ずいぶん経っているが、どうした訳か、どうしてもこの曲を聴きたくてたまらなくなるときがある。わたしはあれから、色々な経験をして変わったのだろうか。残念ながら、自分のことは直接自分の背中が見えないように分からない。


この曲は、もともと、13番カルテットの最終章だったのだが、人々の言を入れて、独立した作品として作品番号に入れたという経緯を持っている曲である。ベートーヴェンは、「アブが刺しても奔馬は止まらない」という評家に向けた言葉を残している人だが、こんな風に人々の言を入れる柔軟な余地も持った作曲家でもあった。


この大フーガは、決して向こうからこちらにやってきてはくれない。こちらから、進んで出向いていかなければ、その謎めいた美しさを明かしてはくれない音楽である。


落語で、金持ちになった商人が習い事をはじめたが、師匠がうるさくいうものだから、弟子が師匠を破門したという笑い話があるが、こと芸術、特に音楽に関しては他人事と笑い飛ばすわけにはいかないものがある。


自分の趣味に合った、気持ちのよい音楽だけを聴いている人は、音楽と戯れているというだけで、真の音楽などまったく聴いていないとはっきり言ってしまっていいのであろう。この大フーガを聴くと、そんなことまで考えてしまう。


音楽を聴くとは、こんなに辛い仕事であるかと骨身に染みて分からせてくれる曲である。その代わり得るものが大きい。この点で、バッハの「音楽の捧げもの」や「フーガの技法」に通ずる音楽である。


わたしは、後期のベートーヴェンのカルテットやピアノ曲は、西洋文化から見て、とてもエキゾチックな音楽として聴こえる。われわれ東洋人にとっては、それこそ正統と思える感覚であるが、精神の極めて奥深い領域にまで達しいていると見てよい音楽だと思う。このことは、ベートーヴェンが耳の聞こえない音楽家であったという、まさにそのことに由来しているものだともかんがえている。


わたしは、この大フーガは、そうした精神の最奥の領域に入る、その入り口の音楽なのではないかと思っている。


精神の内奥に参入することが、なにゆえ、東洋的になるのかは、わたしには分からないが。


大フーガは、その威容からしても、精神の内奥へと通ずる門として、ふさわしい厳格さをもっているように思える。