Sekiの本と詩とエッセイのブログ

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エッセイ ドストエフスキーの時間感覚 <大胆な革新性>

ドストエフスキーの小説、特に「罪と罰」以降の作品には、独特の時間が流れていることは誰も指摘することだが、それについての詳細な論は読んだことがない。


ここで少し、それについて考えてみたい。まず、ドストエフスキーの時間の扱い方だが、ドストエフスキーは、じつにうまく現実の時間を利用していることである。小説には小説自体の時間の進み方がある。例えば、トルストイやバルザックは、その小説の時間進行を妨げるような書き方は一切していない。終わりまで小説の中の時間で出来事は終始する。


それに対して、ドストエフスキーは独特なやり方で時間をねじ曲げる。例をあげよう。ある男にきっかり物理的に15分なるように小説の中で喋らせる。それに「彼はちょうど15分喋った。」と書く。それが、現実の15分という物理的時間と交叉する。そのために、それを読んでいる我々の時間感覚に奇妙な歪みが生じるのである。正確であるがゆえにある「ねじれ」が生じるのである。


これは、ちょうど「ハムレット」で、他の登場人物たちはブランクバースという英詩の韻を踏んで喋るのに、ハムレットだけその韻を無視して、現実そのままの調子で喋らせる。そうすると、逆にハムレットの狂気が際立つという手法を時間的に応用していると言えるかも知れない。


劇中人物は、舞台の上に乗っているのだから、劇としての倫に従うのが真実で、だから韻を踏んで喋る。それを無視するハムレットは狂気の様相を帯びることになる。ちょうど、現実世界と反転しているのである。下手に書けば、見ていられない芝居になるだろうが、シェイクスピアという作劇の達人は見事にそれを逆手にとって成功した。


もう一つ、例を挙げよう。「罪と罰」で、ラスコーリニコフがソーニャに犯罪を告白する有名な場面で、「およそ3分間の沈黙があった。」と作者は書いている。ドストエフスキーはここで、読者に物理的な3分間の沈黙という時間を要求している。それが、どれほど濃密で意義のある3分間かは別として、やはり、現実の物理的な時間を利用していることには間違いない。


また「罪と罰」は全体で、エピローグを除いて、一週間の出来事なのだが、そのことも、ちゃんと小説には書かれていて、読む者は、なんと濃密な一週間であったかと驚くのである。 


小説にも、劇と同じように倫がある。それは時間進行についても同断である。それをあえて物理的な時間を正確に導入して、わざと歪ませ、それを逆手にとって成功した作家は、今のところドストエフスキーひとりではなかろうか。下手に書けば、ただの支離滅裂な作品になってしまうだろう。


これは、ドストエフスキーでは、特に「罪と罰」以降の作品に、顕著な性格で、小説における時間感覚の大胆な革新性のように思える。だが、他の作家の追随を許さぬ技法とも思えない。新しい才能を期待したいところである。