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ハムレット <高貴な自由精神の悲劇>

ハムレットは復讐劇である。忠臣蔵がそうであるように悲劇に終わるより他はない劇である。ただ、ハムレットは非常に多弁で、内蔵助は非常に寡黙であるということは、また、別の話になるのだが。


ハムレットの自由精神は、比喩を使えば、いわば、復讐心という暗い感情を垂直軸にして、その回りを振り幅が非常に大きい螺旋状に下降する感情として運動していき、最後の大団円で、それが交わるように、描かれているように見える。そうして、何よりも、ハムレットが王の血を引く高貴な精神の持ち主であることを忘れてはならないだろう。


初めに、まず、父の亡霊が現れ、ハムレットが復讐を誓う場面を見てみよう。ハムレットは、自分の自由意志によって亡霊に復讐を誓う。このとき、ハムレットの悲劇の運命は決まったのである。


ここで、ハムレットは何の理由も言わずに、すぐさま佯狂することを宣言し、ホレイショーを筆頭とする友人たちには、そのことを黙っていて欲しいと誓わせる。そうして、再度、亡霊が登場し、「誓え」と要求するのだが、彼は、そのくどさを、すぐさまからかう。この地をさまよう亡霊を、ハムレットは「もぐら殿」とも言っている。この笑いさえ誘うからかいこそ、ハムレットの高貴な精神の最初の発露である。


この劇の俗物の代表であるポローニアスと出会い、「何を読んでおいでなさるか?」と問われ、「言葉、言葉、言葉・・・」と返し、この男は本当に狂人ではないかと思わせる場面がある。先の比喩を持ち出して言えば、振り幅が狂気の限界域にまで、達するほどの箇所であろう。実際、彼は狂気と正気のすれすれの境界を行き来し、その視点から、すべてを見抜いていくのである。また、この場面は平凡な俗物性と狂気を装った高貴性とがそのまま交叉した、観客に忘れがたい印象を残す象徴的な箇所である。


そして、これから、出来するであろう事件を予見し、オフェリアに「尼寺に行け」と賢い忠告をするのは、彼なのである。そのオフェリアからは、文脈は違うが、「Noble mind」はそういうことはいたしませんと、転倒したことを言われている。このハムレット劇は、そもそも最初の門番の誰何からして転倒しているのだが、この随所に顔を出す転倒が、この劇を、ずいぶん難解なものにしているし、また、それこそシェイクスピアの狙ったもののように見える。高貴さは、およそ、そのようにしか表現し得まいと感じさせるものがあるのである。


ハムレットが、クローディアスの陰謀を暴くために、劇中劇を催している最中、オフェリアに対してする怪しからぬと見えるほどの性的な言動は、このついに尼寺に行くことのなかった純良な女性に対する女性性への、最も深い愛情のしるしであり、ぎりぎりの愛撫なのであって、単なる、自由な性的行動と捉えてはならない。ここで、ハムレットの高貴なからかいは頂点に達していると見て良いだろう。


この劇を見ていたクローディアスが、「劇を止めい。」と中断させ、ハムレットは、それに呼応して「すねに傷持つ鹿こそ跳ねよ」と見事な科白を吐く。


そうして、クローディアスが罪を悔い、礼拝をしている最中、剣を持ったハムレットが偶然そこに居合わせ、「待て待て、ここで殺してしまっては、意味がないぞ。きゃつが得意の絶頂の時を狙わなくては。」と言って、復讐を思い止まる有名な場面がある。


ここの箇所を指して、ハムレットの優柔不断な性格と言ったのは、トゥルゲーネフだが、この作家は、確かに慧眼さを持っていたと言ってよいのだろうが、やはり、それは慧眼に止まるだろう。


ここは、ハムレットの言葉通り取ればよいので、亡き父の凄まじい地獄の有様を聞いてしまった彼にとっては、これでは、むざむざと仇敵を天国に送り込んでしまうことになるだろう。それでは、復讐にならない。だから、彼は剣を収めるのである。また、先に言った比喩をここで使えば、復讐心の垂直軸にぎりぎりまでに接するような、自由感情の危うい運動の箇所である。


ゲーテが言っているように、ハムレットは決して性格劇ではないのである。ハムレットはハムレットという独立した人格の劇であって、ハムレットは、決して優柔不断な性格の持ち主ではない。


ハムレットの母である、ガートルードの部屋に忍び込んでいたポローニアスをクローディアスと間違えて、「このねずみめ!」と一刺しにするのは彼なのである。また、かれは冷静な行動家として、その遺体を平静に自ら片付けてもいる。


「デンマークは牢獄だ!」とハムレットは叫ぶ。どこまでも突き抜けようとするハムレットの自由感情が、外部に向けられたとき、発せられた言葉である。


それが、彼の内部に向けられるとき、あの有名すぎる「To be or not to be that is the question.」の言葉となる。この言葉は、再び、先の比喩を持ち出せば、限りなく垂直軸に近づき、その周りをはげしく旋回している自由感情から発せられた自省心の端的な表現と言っていいものだろう。


幼馴染みということで、ハムレットに近づこうとするローゼンクランツとギルデンスターンの俗物的な変心を、いち早く見抜き、「毒蛇のように嫌な奴ら」と評するのはハムレットであるが、この強い表現も、自由精神によって、正確に見抜かれた彼らの本性を過たず指していると言って良い。


友人のホレイショーと訪ねた墓場の場面で、ある剽軽だった貴族の頭蓋骨を取り上げて、「おい、お前、「綺麗なご婦人方、ご覧なさい。あなた方もいずれはこうなるのですよ。」と宮廷に行って、笑わせて来い。」と飛び切りの自由感情によるからかいを見せるのも、高貴な自由精神の発露そのままであって、このとき、ハムレットは自分の死自体を、この貴族に仮託して弄んでいるのである。


また、狂死したオフェリアの遺体の前で、その兄のレアティーズと、どちらがオフェリアに対する愛情が深かったか言い合う場面があるが、このポローニアスから俗物根性をふんだんに受け継いだ兄のありきたりの愛情と、オフェリアの女性性に対して、罪とも言えるようなぎりぎりの愛撫を示したハムレットとでは、明らかに、ハムレットの方に軍配が上がるのである。


最終場面で、ハムレットはレアティーズから決闘を申し込まれ、クローディアスの陰謀によって、毒を塗られた剣に刺される。ハムレットは、その剣を奪って、クローディアスとレアティーズを倒し、本懐を遂げる。その間に、ガートルードは自害する。亡霊と結ばれた自由意志による固い契約によって復讐は遂げられ、嵐が過ぎ去った後のような、不思議な爽快さを観客は味わう。


友人のホレイショーは、この高貴な自由精神の持ち主に、「おやすみなさい.ハムレット様。」とやさしく言葉をかけ、また、ハムレットは「王位はフォーテンブラスに、それがハムレットの意志だ。」とかねてから、案じていたかんがえを遺言として残すのである。


自然力のような運命の力と、どこまでも自由であろうとする高貴な人間の精神とが、見事に溶け合った悲劇である。